今年のことは

今日はクリスマス。学校は2学期を終了して、冬休みに入りましたね。
気が付けば今年もあと6日。みなさん、今年やろうと思ったことでやり残したことはないですか?

残りの日数も少ないし、大きなことは出来ないかもしれませんね。でもまだまだ出来ることもあるはずです。
中途半端になっていることを終わらせたり、始めようと思ったことを始めてみたりとできることを探してみるのもいいかもしれませんね。

今年にするべきことは今年のうちに。先に延ばしてもいいことはありませんよ。
来年を良い年にするためにも、今年をしっかり終わらせることが大切だと思います。
あと6日、どう過ごすかは人それぞれです。今年は「これをやった」と思える年にして、新しい年を迎えましょう。
(牧野)

当たり前。

 「先生、毎日面白くないんやけど・・・」

何気ない生徒との会話で出てくる言葉。

大きな意味があるわけでも、深刻な感じであるわけでもないかもしれないが、

日々の生活の中で自分なりの「楽しみ」を見つけられなくなっていることは分かる。

特別な出来事がないと、つまらない日常に見えてしまうことが多い。

自分にとっては「当たり前」で、それがずっと続くように感じる。

 

 私は今、持病のために右目が見えなくなりつつある。

手術で治療できるのだが、見えることが「当たり前」だったのに、

日々変化する視力に不安を覚えてしまう。朝起きたら、見えなくなっているのではないかと・・・。

失う可能性が出てきて初めて、「当たり前」のことの大切さや有り難さが分かる。

今まで何も感じなかったが、目が見えていることに心から感謝が出来る。

そして、自分にとって「当たり前」のことなど本当はないんだと気づかされる。

 毎日を楽しむためには、少なからず「余裕」が必要になる。

身体的余裕、経済的余裕、社会的余裕や時間的余裕がないと、

何かを楽しむことが難しくなる。見聞が狭くなってしまうからである。

自分の価値観から抜け出せなくなるから、何に対しても新鮮さを感じられなくなる。

周囲の環境や状況を見聞きすることで、新たな発見や新しく出来ることが増えてくる。

教科書からだけではない「学び」である。

つまり、「学び」は自分の閉じた世界を広げてくれるのである。成長させてくれる。

それこそ、「学び」の重要な目的の1つだと言える。

 生徒を指導したり、話したりする中で、自分の考えを「当たり前」と決めつけず、

生徒に学びのきっかけを与えられるように、そして、私も生徒から学べるように

精進したいと心から思っている。 (中島)

「目的」と「手段」

 大学入学共通テストまで二か月を切りました。

受験生の表情を見ると、緊張と不安が入り混じった感じを受けます。

そして、今までの受験勉強の疲労が出てくるので、

体力的にも、精神的にも一番きつい頃だと思います。

何とか全員無事に志望校合格を掴み取って欲しいと心から願います。

 受験が差し迫ったこの時期に大切なことは、

「今、何のために頑張っているのか」という「目的」を忘れないことです。

「えっ!?そんなの『○○大学に合格するため』に決まってるやん!」って

言われそうです(実際に生徒に言われました・・・(;^_^A)が、

私からすると、それは「目的」ではなく、「手段」です。

だって、大学は最終目的地ではないからです。

大学卒業後にどんな仕事をしたいか、どんな暮らし方を望むのか、どんな自分で在りたいか

などが「目的」ではないでしょうか。

 「目的」と「手段」を取り違えてはいけません。

年齢を重ねていくと、「やるべきこと」が増えていき、「やりたいこと」が霞みがちになります。

そうなると、毎日がつまらなく感じてしまうようになります。

そんな時に「目的」は自分を支えてくれます。もう一歩前に足を踏み出させてくれます。

そして、大変なことはあるけど、少しずつ「目的」に近づけるのです。

 生徒たちには将来笑っていて欲しいと思います。

だからこそ、しんどい時こそ「目的」を忘れないで欲しいと伝えたいのです。 (中島)

自分の選択。

最近、高校2年生から受験の科目選択の相談を受けることが増えて来た。

学校で選択授業を決定する時期だからだろうか。

嫌いな科目や苦手な科目はどうしても避けたり、受験で使わなくても良いようにしたい。

人は苦しいことや辛いことから逃げたくなる。

「将来の為だから頑張れ!」「他の人も頑張っている」などと言うつもりはない。

私自身が受験生の時、嫌いな数学から逃げたからである。

「数学を減らして他科目に集中して勉強時間を増やし合格する」なんていう言い訳を

大義名分として自分に言い聞かせて・・・。結果から言うと、時間は増やさないし、

効率も上がらない。そもそも楽をしたかったから当たり前なんですけど。

そんな逃げてる自分が嫌いだった。

将来に対する不安、不合格に対する恐怖、自由な時間が減るストレスから苦しくて仕方なかった。

当時は数学を捨てることしか考えられなかったけど、今は捨てない道もあったと思える。

自分が希望する今の場所に辿り着くのに時間がかかったし、回り道もした。

逃げることも1つの方法だし、否定するつもりはない。

ただ、逃げても気持ちはくすぶるし、後で代償は払わなければいけなくなることを伝えたい。

どういう道を選択しても良い代わりに、自分の人生の責任は自分にある。

だから、しっかり自分の将来について情報を調べ、今の自分が最善と思える選択をして欲しい。

(中島)

アキラメル。

 今朝、「藤波辰爾、67歳でシングル王座奪取」というニュースを目にしました。
自分が子供の頃からプロレスの第一線で活躍されていた方が、30年ぶりにタイトルを取るとは、
何てスゴイんだろうと心から感動しております。プロレスファンではないのですが、
第一線で活躍するだけでなく、タイトル戦をする覚悟と挑戦、また努力と苦悩は如何ばかりかと
考えるだけで頭が下がります。そして、「お前も、まだまだ頑張れるだろう?」と励まされているようで
元気を頂きました。

 何かを目指して歩き始めはしますが、その道をひたすら歩き続けれることは簡単なことではありません。
時には心が折れてしまい、諦めてしまうこともあります。
でも、元々「諦める」という言葉は悪い意味ではないのです。「諦める」は「明らめる」、つまり「明らかにする」
ことなのです。真実や真理を明らかにすることなのです。
 
 ところが、日本語ではその意味がごっそり抜け落ちて、「目指していたもの途中で止める、断念する」という
マイナスの意味ばかりで使われるようになったのです。自分が望んでいることを目指す途中の「苦しさ」や「辛さ」
を感じると、その感情から逃げ出したくて断念し、「諦めて」しまうのです。
マイナスの感情は本人にしか分からない部分があるので、それを否定するつもりはありません。ただ少し勿体ないと
思うのです。全てを投げ出してしまう前に、「自分が望んでいたものは何だったのか」「なぜ、望んでいたのか」を
明らかにすることも大切だと思うのです。目的と手段を明確にして、マイナス感情を生み出している元は何なのかを
はっきりさせるのです。目的地にたどり着く道は1つではありません。自分にあった道(手段)を見つけると途端に楽になることもあります。

 私もここらでもう一度、自分の夢について「明らめて」みようかな!  (中島)

9月に

 今日、近くの中学校では体育祭が行われています。
「もうそんな季節か」と時の流れの速さに驚かされます。
最近はコロナの影響で、午前中のみで、さらに保護者が見に行くことが出来ない
学校のイベントが増えているようです。
イベントが出来ないよりは良いのでしょうが、なにか寂しさも感じますね。
9月や10月は色々と学校のイベントが楽しい時期です。コロナ禍といえども楽しんでもらいたいものですね。

 また、入試に向けた動きも加速していく時期でもあります。
受験生の方、周りに流されてはいませんか?
夏休みに頑張った人も、ここでもうひと頑張りしないと思ったような結果は得られませんよ。
勉強も抜かりなく頑張っていきましょう。

 上手く勉強できないという人は、無理にでも勉強のできる環境に飛び込みましょう。
SHOOTはコロナ対策を十分に行って、自習室を開放しています。
塾生はもちろん、そうでない人も使えます。環境づくりのひとつとして利用してもらえれば
うれしいですね。

 これから入試に向けた勉強、定期テストに向けた勉強が本格化してきます。
一緒に頑張っていきましょう。(牧野)

夏期指導、熱血爆走中!!

 ついこの前、夏休みが始まったと思ったのに、
早いもので、夏期指導も残すところ、およそあと10日になりました。
塾生はもちろん、夏期生も毎日よく頑張って通っています。
中には、夏休みの課題に追われている生徒もいますが・・・(笑)

 毎年、塾生と夏期生の差を感じています。
単に、成績や表現力といった外から分かりやすいものではなく、
「学習」そのものについてです。塾生には、入塾した当初より、
学習するとはどうすることなのか、成績を上げる学習には何が必要かといった
ことをまず徹底させます。そして、自分に不足していることを認識させます。
そうでなければ、成績を上げる、ましてや学習の成果を積みあげることなど
不可能です。「予習→指導→復習」、言い換えると、次へつながる「線の学習」です。
 
 それに対して、夏期生は「点の学習」です。
問題を解くだけ、ノートをまとめるだけ、塾で勉強するだけのような、
○○だけの学習、その場限りの学習が多いのです。

 テストで同じ60点を取ったとしても、その原因は十人十色です。
自分の原因に合った学習をしなければ効果はありません。
それにもかかわらず、ひたすら問題を解くことしかしなければ、
結果は・・・言わなくても分かりますね。

 だから、夏期生にはその大切なことだけでも伝えたいと思っています。
頑張った分だけ結果を残して欲しいと思うのです。

 さぁ、夏期指導ラストスパートです!みんな頑張ろうヾ(*´∀`*)ノ  (中島)

間違うということ。

 近年、「間違うかもしれないから答えを書かない」と言う生徒が多くなったように感じる。
 間違えたり、失敗したりすることが、いつから恐く感じるようになったのだろうか。
「間違う→叱られる・恥ずかしい→自信がなくなる→正解以外書きたくない→間違う→…」と
ループしているのような気がする。尚更、間違うことへの恐怖心が強固なものになってしまう。
誰だって、正解したいし、正解し続けたいと思う。

 しかし、正解ばかりを選び続けることなんて不可能だ。
テストだと特に、「正・誤」の2つしかないから、余計に緊張するのだろう。
 
 でも、なぜ、そのことが正解だと分かっているのだろうか、また間違い(失敗)だと分かっているのだろうか。
それは、正解と間違い(失敗)を経験(発見)した先人たちがいるからである。
多くの失敗をしてきた先人たちがいるからこそ、そのデータを元に、どういう状況が成功なのか、失敗なのかを証明してきたのだ。それらを分かりやすくまとめたものが、教科書や参考書なのだ。そこから、「正・誤」が生まれる。
だから、先人たちもしてきたように、間違えることが悪いのではなく、間違えたままにしておくことがいけないのである。

 間違いは直せばいい。何もしないことこそ「間違い」だと思う。
 
 ただ、「努力不足による間違い」と「不注意から同じ間違いを繰り返すこと」は避けなければいけない。
それらの失敗は、次の成功につながりにくい。自分に自信が持てなくなる。
 
 だからこそ、間違いは次に活かせるように直さなくてはならない。
 
 子どもたちには、間違えるのならば、正しく間違って欲しいと指導するたびに切に願う。

魚と魚の捕り方

 釣り好きのブログみたいなタイトルにしてしまった(笑)。

 老子の言葉に「魚を与えるのではなく、魚の獲り方を教えよ」というものがある。
空腹の人に魚を与えて一時的に空腹を紛らわせるのではなく、
自分で魚を獲れるようにして自分で食料を調達できる力を教えたほうが良いという意味である。
つまり、短期的な問題解決ではなく、長期的で根本的な問題解決をしなければならないということだ。
魚は食べてしまえば無くなってしまうが、獲り方を知っていれば空腹時に自分で魚を手に入れられる。
 私はこの言葉を聞いた時、学習においても同じことが言えると感じた。
「魚=知識(解答)、魚の獲り方=知識の使い方(解答の作成方法)」に置き換えられる。
分からない問題があった時、その解答を教えてその1問だけ分かっても、他の問題で自分で解答を作れるようにならなければ、本当の意味で実力が付いたとは言えない。
よく問題集を解くときに、分からない問題にぶつかると解答を見ながら解く生徒がいる。
解答を見ること自体は構わないのだが、そこで分かった気になって終わってしまうのが問題なのだ。解答を知るだけでは解くことは出来ない。解答だけではなく、どうしてそう解くのかという成り立ちを理解し、自分でやってみて初めて解けるのだ。習った魚の獲り方を実践して、やっと魚は獲れるようになる。途中、試行錯誤もあるだろうが、その中から自分に合う方法が見つかる。
 魚を求める人は、ずっと誰かに魚をもらい続けないといけない。他人に依存しないと生きていけなくなる。生徒には、魚の獲り方を求める人間にあって欲しいし、魚を自分で獲れる人間になることを切に望んでいる。(中島)

叱れない親。

 30年近くこの仕事をしていると、子どもの変化はもちろんですが、親の変化も身近に感じます。最近で言うと、「叱らない親」が多くなった気がします。2010年頃から言われている「叱らない子育て」の影響でしょうか。例えば、「スーパーの中で、子どもが走り回っていても親は注意をしない」、「公園で、子どもが他の子を泣かせても親は何も言わない」、「ファミレスで、子どもが大声で騒いでいても、親はママ友と話をしている」など、このような子どもの言動を叱らない親は、子供が何をしても何も言わない、その容認が「叱らない子育て」だと思っている親もいるようです。

 「叱る」というのは、特に、危険が生じる場合や他人に迷惑をかける場合に、「子供を正しい方向に導くために注意すること」です。これは子どもを自立させ、将来社会へ送り出すために、とても重要なことです。「叱らない」方法でも、「子どもを正しい方向に導く」ことはしなければなりません。「叱らない子育て」とは、決して、子どもを「何も言わずに、放っておくこと」ではないのです。子どもと社会をつなぐのが親です。子どもを放置したままで、社会規範を身に着けられるはずはないのです。叱らずに、「教える(注意する)」と「褒める」という方法を使って、子どもを正しい方向に導くのです。つまるところ、「叱らない子育て」というのは、それらの手法で、叱らなくてもよい子どもに育てることなのです。

 また、「叱る」と混同しやすい「怒る」という言葉があります。「怒る」というのは、「イライラした感情を相手にぶつけること」です。「叱る」と違って、教え、導く要素はありません。だから、悪いことをするたびに怒っている親を見かけますが、まったく子どもを育てることに繋がらないのです。

 「叱る」ためには、きちんと子どもに寄り添う必要があります。どんな理由でその行動をしたのか、何が悪かったのか、子どもが理解できるように伝えなくてはいけません。かなり労力が必要です。時には何も言いたくなくなるのも理解できます。のびのびと子どもを育てたいという親の気持ちは分かりますが、それと「何も言わずに、子どもに大切なことを教える機会を失う」ことは、まったく別の話です。(中島)


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